2024年2月11日

   アブラハムが待ち望んでいた約束の地
ヘブル人への手紙11章8節ー16節

*以下に記していることは、当日の説教の原稿に大幅な補足を加えたものです。結果的に、倍ほどの長さになっています。

 私は、昨年の10月7日に起きたハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃と、それに対する報復として始まったイスラエル国軍のガザ地区への侵攻を受けて、いろいろな方からお問い合わせをいただいてきました。また、この世のメディアの報道に惑わされないで、イスラエルを支持することが神のみこころである、という主旨のメールがあったということも聞きました。
 それらのお問い合わせに共通してかかわっていることは、今日のパレスチナをどのように理解するかということです。より具体的には、がアブラハムとその子孫に「カナンの地」―― これが地理的には今日のパレスチナに当たります―― を相続財産として与えてくださると約束してしてくださったこととのかかわりで、パレスチナをどのように理解するかということと、1948年5月14日のイスラエルの建国とのかかわりをどのように理解するかということです。この二つのことのうち、より根本的なことは、アブラハムが待ち望んでいた相続地のことです。このより根本的なことをみことばに従って理解すれば、イスラエルの建国とのかかわりについても理解することができると考えられます。

          *
 このことを理解するための光を与えてくれるのは、ヘブル人への手紙11章8節ー16節に記されているみことばです。
 そこには、

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と記されています。
 今お話ししていることと関連することを順次取り上げていきますと、まず、9節ー10節には、

信仰によって、彼[アブラハム]は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。

と記されています。
 ここでは、アブラハムは「約束された地に他国人のようにして」住んだと言われています。それは、アブラハムだけでなく「同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」と言われています。ここに出てくる「他国人」や13節に出てくる「旅人」、「寄留者」は、その国の人々に与えられている権利と恩恵にあずかることができない人々です。また、アブラハム、イサク、ヤコブは、土地に基礎を据えて建てる建物ではなく、移動ができる「天幕」に住んだと言われています。
 私はかつて、創世記に記されているアブラハムのことを読みながら、アブラハムはすでにカナン人たちが住んでいる地に後から入っていったので、やむなく天幕生活をしていたのだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。
 このこととの関わりで注目したいのは、創世記14章に記されていることです。
 1節ー7節には、

さて、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代のことである。これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った。この五人の王たちは、シディムの谷、すなわち塩の海に結集した。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目に背いたのである。そして十四年目に、ケドルラオメルと彼に味方する王たちがやって来て、アシュタロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でフリ人を打ち破り、荒野の近くのエル・パランまで進んだ。それから彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、すなわちカデシュに至り、アマレク人の全土と、さらにハツェツォン・タマルに住んでいるアモリ人を打ち破った。

と記されています。
 ここには、メソポタミアの四人の王、すなわち、「エラム[バビロニアの南東、ペルシア湾の北東岸に沿った地域にありました]の王ケドルラオメル」と三人の同盟国の王たちが、途上の諸民族をうち破りながら、カナンの地に遠征してきたときのことが記されています。それは、4節に、

 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目に背いた

と記されているように、「十二年間」ケドルラオメルに仕えていたソドムの王とゴモラの王を含むカナンの五人の王たちが「十三年目に背いた」ためでした。このことは、ケドルラオメルがカナンの地まで支配していたことを意味しています。ケドルラオメルは強大な帝国の王でした。カナンの五人の王たちはケドルラオメルとその同盟者たちと戦いました。
 この後は、ソドムの王とゴモラの王に焦点が当てられていて、彼らが敗走したことが記されています。それは、11節ー12節に、

四人の王たちは、ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行った。また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。ロトはソドムに住んでいた。

と記されているように、メソポタミアの四人の王が「ソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行」き、ソドムに住んでいたアブラハムの甥のロトとその財産も奪って行ったからです。
 その報告を受けた、アブラハムは318人を引き連れ、盟約を結んでいたアネルとエシュコルとマムレとともに(13節と24節から分かります)、四人の王を追撃して、彼らをうち破り、ロトとその財産を取り返すとともに、彼らを「ダマスコの北にあるホバまで追跡し」ました(15節)。
 「ホバ」はカナンの地の北の果ての方にあります。つまり、アブラハムは彼らをカナンの地から追い出したのです。このことは、アブラハムが、が「約束された地」を示すために用いられたカナンの地を大切に守っていたことを意味しています。
 さらに、このことから、今お話ししていることにとってとても大切なことが分かります。それは、もしアブラハムが、カナンの地をが自分に与えてくださった地であるから自分のものであると主張して、そこに自分の王国(都市国家ですが)を建設しようとしたら、それができたということです。つまり、アブラハムはそこに自分の王国を建設したかったけれどそれができなかったので、やむなく天幕生活をしたのではなく、あえて、天幕生活をしていたということです。
 そして、ヘブル人への手紙11章では、それは、アブラハムが、

 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。

と言われており、さらに、

 その都の設計者、また建設者は神です。

と言われています。
 このことがとても大切であることは、このことがこの3節後の13節ー16節において、さらに説明されていることから分かります。
 10節に続いて11節ー12節には、

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。

と記されています。

          *
 これに続いて13節ー16節には、

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と記されています。
 最初に出てくる「これらの人々はみな」がだれを指しているのかが問題となります。これについては、11章2節以下に出てきた人々を含むのか、それとも、この8節ー19節に出てくるアブラハム、イサク、ヤコブのことなのか見方が別れています。
 私は2節以下に出てきた人々を含む可能性があると考えていますが、この二つの見方の「中間」、つまり、2節以下に出てきた人々を含まないとしても、アブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、11節ー12節に記されている、アブラハムの「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫」をも含んでいると考えています。
 それは次の二つの理由によっています。
 第一に、すでにお話ししたように、この13節ー16節に記されていることは、9節ー10節に記されていることをさらに展開して説明しています。それで、9節ー10節に記されていることに13節ー16節に記されていることを続けると説明としてはすっきりします。このことは、11節ー12節に記されているアブラハムから生まれてきた多くの子孫たちのことは、9節ー10節に記されていることと13節ー16節に記されていることの間に、挿入されているようになっているということです。これによって、「これらの人々はみな」に数多くのアブラハムの子孫たち(その筆頭がイサクとヤコブです)も含めていると考えられます。
 第二に、もし「これらの人々はみな」がアブラハム、イサク、ヤコブだけを指しているなら、このような言い方をしないで、単純に、「彼らは」とすればよかったのです。
 このこととのかかわりで注目したいのは、11章では「これらの人々はみな」ということばが、この13節だけでなく、11章の最後の39節ー40節にも出てくるということです。そこには、

これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。

と記されています。
 これは、内容的にも13節に、

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

と記されていることと同じことで、それを別の面から説明しています。
 そして、39節では、この「これらの人たちはみな」は、2節で、

 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

と言われた後に取り上げられているすべての人々を指しています。そのことは、39節で、

 これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました

と言われているときの「信仰によって称賛されました」ということばが2節に、

 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

と記されていることにも出てきて、初めと終わりが対応する(インクルーシオーという)形になっていることからも分かります。
 ちなみに、この「信仰によって称賛されました」ということばによって、初めと終わりが対応する形になっていることには、今お話ししていることにとっても意味があります。というのは、2節で、

  昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

と言われているときの「この信仰」は1節に、

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と記されている「信仰」だからです。
 11章に記されている人たちはみな、「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」信仰によって歩んだ人たちです。その意味で、13節に、

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

と記されていることは、実質的に、そのすべての人たちに当てはまります。
 エノク(5節)は死ななかったし、アベルとノアは旅人ではなかったということから、これには当てはまらないという主張があります。しかし「地上では旅人であり、寄留者であることを告白してい」たということは、11章の文脈から「自分の故郷」(14節)「すなわち天の故郷」(16節)に属しているたちのあり方です(38節「この世は彼らにふさわしくありませんでした。」、参照・13章14節「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。」)。その点は、エノクも同じです。
 確かに「エノクは死を見ることがないように移されました。」しかし、それは、エノクは罪がなかったとか、罪を犯さなかったということではありません。ただ神であるの特別なお計らいによって「地上」から「天の故郷」に「移されました」―― その点はエリヤも同じです(列王記第二・2章11節)。ローマ人への手紙5章12節に記されている「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」ということ、コリント人への手紙第一・15章22節に記されている「アダムにあってすべての人が死んでいる」ということに、エノクやエリヤの例外があったということはありません。また、古い契約の下で信仰によって歩んだ人びとは滅んでしまったわけではなく、肉体的な死とともに、「天の故郷」に「移され」たと考えられます。
 いずれにしても、これらのことから、13節の「これらの人たちはみな」は、アブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、数多くのアブラハムの子孫たち―― この11章では古い契約の下にあって、「信仰によって称賛され」た人々のことが記されていますので―― アブラハムの信仰にならう数多くのアブラハムの子孫たちをも指していると考えられます。
 事実、11章では8節ー19節に記されているアブラハムのことの後に記されている「信仰によって称賛され」た人々はすべてアブラハムの子孫です。
 また、創世記では、がカナンの地を与えてくださることを約束してくださったときに、アブラハムとその子孫にと言われないで、アブラハムの「子孫に」とだけ言われたこともあります。これは、アブラハムの子孫がカナンの地を受け継ぐということがとても大切なことを示しています。12章7節に、

はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」

と記されています。これは、アブラハムがカナンの地に入ってから最初にが現れてくださったときのことです。また、15章18節には、

その日、はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。

と記されています。これはがアブラハムと契約を結んでくださった最初の事例におけることです。
 この創世記15章に記されていることには今お話ししていることと深くかかわっていることがあるので、後ほどお話しします。
 ここでアブラハムの子孫のことにこだわったのは、このことによって、アブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、古い契約の下にあった信仰によるアブラハムの子孫たちも、13節ー16節に、

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

と記されていることにあずかっていた、ということに注目したかったからです。

          *
 これが、創世記17章7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」

と記されている、がアブラハムと結んでくださった契約において示された「約束された地」について、アブラハム、イサク、ヤコブを初めとする、信仰によるアブラハムの子孫たちが、その信仰によって、待ち望んでいたものであると、神が霊感された新約聖書のみことばが証ししていることです。
 このアブラハム、イサク、ヤコブを初めとするアブラハムの子孫たちが、信仰によって、待ち望んでいた、人の手によってではなく、神が設計され、建設された「堅い基礎の上に建てられた都」が現実となることが、究極的な成就となります。
 このように、地上の「カナンの地」は、アブラハム、イサク、ヤコブを初めとするアブラハムの子孫たちが、信仰によって、待ち望んでいた「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」、また神が設計され、建設された「堅い基礎の上に建てられた都」を指し示している、古い契約の下にある、広い意味での「地上的なひな型」でした。
 その、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」、また神が設計され、建設された「堅い基礎の上に建てられた都」は、最終的には、栄光のキリストが再臨されて、すべての人の罪に対する最終的なさばきを執行された後、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地において完全な形で成就します。
 終わりの日のことを記しているペテロの手紙第二・3章12節bー13節には、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。
 これらのことは終わりの日に実現することですが、私たちはイエス・キリストにあって、すでに、原理的・実質的に、それにあずかっています。ピリピ人への手紙3章20節ー21節には、

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されています。冒頭で、

 私たちの国籍は天にあります。

と言われていることは、すでに私たちの現実です。事実、私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされています。そのイエス・キリストは、今、天において、父なる神の右の座に着座しておられます。そして、私たちもこれにあずかっています。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているとおりです。
 それでは、今、地上にあるの民の間にあるの栄光の御臨在はどこにあるのかということが問題になります。それは、言うまでもなく、エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されている、ユダヤ人と私たち異邦人とからなる、キリストのからだである教会にあります。ここで「すべてのものをすべてのもので満たす方」と言われているのは、栄光のキリストです。
 また、これを別の面から示しているエペソ人への手紙2章19節ー22節には、

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されています。
 さらには、エペソ人への手紙3章3節ー6節には、

先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、6節に記されている「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人に・・・・・なる」ということです。これは、異邦人も「キリスト・イエスにあって」ユダヤ人とともに、信仰によるアブラハムの相続人となるということを意味しています。

          *
 このように、地上の「カナンの地」は、アブラハム、イサク、ヤコブを初めとするアブラハムの子孫たちが信仰によって待ち望んでいた「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」、また神が設計され、建設された「堅い基礎の上に建てられた都」を指し示している、古い契約の下にある「地上的なひな型」でした。
 この古い契約の下にある「地上的なひな型」と新しい契約の下にある「本体」の関係について、ヘブル人への手紙8章8節ー13節では、8節ー12節で、エレミヤ書31章31節ー34節に記されている、が新しい契約を与えてくださることを預言しているみことばを引用した後、13節で、

神は、「新しい契約」と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。

と教えています。そして、このことを踏まえて、古い契約の下での「地上的なひな型」のことを「天にあるものの写しと影」(8章5節)、「天にあるものの写し」(9章23節)、「本物の模型」(9章24節)、「来たるべき良きものの影」(10章1節)などと呼んでいます。これらのものは、その本体が現れるまで、本体を指し示す役割をもっていましたが、その本体が現れたならその役割を終えます。その本体のことは、9章24節に、

キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。

と記されています。やはり、アブラハムと信仰によるアブラハムの子孫たちが待ち望んでいた天にある聖所です。
 これに対して、これらの教えは、古い契約の下での聖所に関するものであって、約束の地に関するものではないという反論があるかも知れません。
 しかし、本日は中断していますが、これまでお話ししてきたように、カナンの地が約束の地であることの核心は、そこにの聖所があって、そこにの栄光の御臨在があることです。そして、そのの栄光の御臨在の御許にの契約の民が住まい、そこでを神として礼拝することです。そのことは、出エジプト記33章15節に記されている、モーセがに、

もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。

と祈ったことから汲み取ることができます。この時、モーセは、カナンの地がどんなに乳の蜜の流れる豊かな地であっても、そこにがご臨在してくださらないのなら、この時にがご臨在しておられるシナイ山の麓(シナイの荒野)に、そのまま留まらせていただきたい、と願っているのです。
 また、旧約聖書には、このことをさらに突き詰めて、神であるご自身こそが受けるべき「割り当ての地」「割り当て」(ともに「ヘーレク」)であるということが、自分のこととして告白する形で示されています(詩篇16篇5節、73篇26節、119篇57節、哀歌3章24節)。
 詩篇73篇25節ー26節には、

 あなたのほかに
 天では 私にだれがいるでしょう。
 地では 私はだれをも望みません。
 この身も心も尽き果てるでしょう。
 しかし 神は私の心の岩
 とこしえに私が受ける割り当ての地。

と記されており、哀歌3章23節bー24節には、

「あなたの真実は偉大です。
 こそ、私への割り当てです」と
 私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。

と記されています。
 ヘブル人への手紙が繰り返し述べているように、古い契約の下にあって、人の手で造った聖所は、御子イエス・キリストの血による新しい契約の時代となって、すでにその「地上的なひな型」としての役割を終えています [注]。 同じようにカナンの地も、古い契約の下での役割を終えています。


[注]このこととのかかわりでヨハネの福音書に記されていることに触れておきます。
 2章12節ー22節に記されている、いわゆる「宮きよめ」の19節ー22節には、

イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

と記されています。ここには「神殿」が3回出てきますが、このことば(ナオス)は、がご臨在される「聖所」を表しています。古い契約の下での「地上的なひな型」としての聖所が指し示していたのはイエス・キリストの復活のからだでした。
 ヨハネ4章21節ー24節には、

イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

と記されています。
 これは、サマリア人の女性が礼拝すべき場所は「この山」すなわちサマリヤ神殿があったケリジム山なのか、それとも、エルサレム(シオンの丘)なのかと問いかけたことにイエス・キリストがお答えになったものです。サマリア人の女性はいわば「本山論争」を仕掛けたのです。これに対して、イエス・キリストはそのどちらでもないとお答えになっておられます。つまり、古い契約の下にあって、人の手によって建てられた聖所(ナオス)のある神殿が「地上的なひな型」として指し示していた「本体」、「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」という「聖所」の核心にあることを意味する御名のお方が現れて来ておられるからです。この方は、やがて、ご自身の復活のからだというまことの神殿を建てられます。
 人の手による地上の神殿は地上のどこかに限定されます。しかし、そこに栄光のキリストが御霊によってご臨在されるキリストのからだである教会には、そのような限定がありません。

          *
 さらに、もう一つのことに触れておきます。
 創世記15章には、より広い文脈から80歳を越えていたと考えられるのに子がなかったアブラハムに、が相続人としての子孫を与えてくださることを約束してくださり、契約を結んでくださったことが記されています。
 15章5節ー6節には、

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。
 旧約聖書においては、義と認められている人は、通常、のみこころに従い、それを行う人ですが、このアブラハムは自分では何もしないで、ただ、自分の子孫に関する約束をしてくださった「を信じた」だけです。その点で、これは特異な事例であるということが指摘されています。
 ご存知のように、このことを受けて、パウロはガラテヤ人への手紙3章9節で、

 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

と教えています。また、ローマ人への手紙4章13節では、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであった

と記しています。
 そして、この創世記15章5節ー6節に記されている約束は、「を信じた」アブラハムの相続人としての子/子孫のことですので、この後には、彼らが受け取る相続地のことが取り扱われています。これには色々なことがかかわっていますが、今お話ししていることにかかわることだけに触れておきます。
 13節ー16節には、

主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」

と記されています。
 はアブラハムに、後に起こったことに合わせて言うと、アブラハムの子孫であるイスラエルがエジプトの奴隷となって苦役に服し、その後、がそのことでエジプトをさばき、イスラエルをエジプトから導き出してくださり、約束の地であるカナンに戻って来るということをお示しになりました。
 特に、注目したいのは、最後にが、

 アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と言われたことです。この場合の「アモリ人」はカナンの地の住民たちを代表的に示しています。これによっては、イスラエルがカナンの地に侵入することは、が、罪を極まらせてしまうカナンの地の住民たちの罪をおさばきになるためであるということをお示しになっておられます。
 それで、ヨシュア記3章に記されていますが、はイスラエルがヨルダン川を渡って、カナンの地に入るに当たって、まず、祭司たちがの栄光の御臨在の現れである雲の柱がその上にある契約の箱を担いで川を渡り、それに続いて民が川を渡るようにされました。つまり、カナンの地に栄光のが御臨在されることによって、さばきが執行されるということであり、そのことがあって、の契約の民が約束の地を受け継ぐようになるということです。[注]

[注]カナンの地に栄光のが御臨在されることによって、その地の民へのさばきが執行されることの意味に関連することを、1998年7月26日に「聖絶と聖別」という説教でお話ししていますので、その原稿のファイルをご覧ください。


 それは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、世の罪をおさばきになって罪を清算された後に、の契約の民が約束の地である新しい天と新しい地を受け継ぐようになることを指し示す、古い契約の下での歴史的な出来事でした。
 同じ意味を持っていることは、すでにノアの時代の大洪水によるさばきをにおいても示されていたことです。そのさばきを通って救われたノアとその家族、ノアとともに救われた生き物たちも含めてのことですが、が新しい時代を受け継ぐようになりました。それは、終わりの日に起こることを指し示す、古い契約の下での歴史的な出来事でした。(ペテロの手紙第二・3章3ー7節、10節ー13節、参照マタイの福音書24章37節ー39節)。
 しかし、今パレスチナで起こっていること、1948年以来今日まで起こっていることには、このような意味はありません。
 パレスチナ人の罪が特に深くて、の御前に満ちてしまったというようなこともありません。
 さらには、パレスチナ人の中にも、契約の神であるが遣わしてくださったメシアであるイエス・キリストを信じている方々も多くいます。ヨルダン川西岸にあるパレスチナ人自治区(もともとパレスチナに住んでいた人々で、繰り返し起こった中東戦争でイスラエルに追い込まれ建てしまった所です)でも教会があって、昨年のクリスマスを祝うことを中止したことが新聞(一般紙)でも報じられました。また、迫害下にある教会の状況を配信しているモーニングスター・ニュースは、ガザ地区にある教会に対してイスラエル軍が攻撃を加え、何人かが殺害されたことを伝えています。
 カナンの地は古い契約の下での約束の地を指し示すという役割を終えていますので、イスラエルがパレスチナを武力によってでも占領することは神であるのみこころであるという主張には、みことばの根拠がありません。

          *
 また、1948年5月14日のイスラエル国家の建設も、それがアブラハム契約に約束されていたことの成就であると主張することができません。
 このイスラエル国家の建設が約束されていたことの成就であると主張する方々は、旧約聖書の預言のみことばを引用してその主張をしておられます。
 これに対して、私たちがコーヒーハウスで読み合わせをしている、ウイリアム・ヘンドリクセンの『死後と終末』(鈴木英昭訳、つのぶえ社、1983年)の31章で、申命記30章1節ー10節、列王記第一・8章46節ー52節、エレミヤ書18章5節ー10節、29章12節ー14節、エゼキエル書36章33節、ホセア書11章10節などを挙げた上で(これらは、代表的なものとしてあげられていて、実際には、これ以外の預言のことばがあります)、

これらの預言がユダヤ人の国家としての文字通りの回復に関するかぎり、ユダヤ人がバビロン・アッスリヤの捕囚から帰還し、自分たちの地に国家を再建した時成就したということです。

ということを指摘しています。
 注釈を加えておきますと、ここで注意しなければならないのは、

(これらの預言が)ユダヤ人の国家としての文字通りの回復に関するかぎり(傍点は私がつけたもの)

という限定がつけられていることです。
 ヘンドリクセンは説明していませんが、1948年のイスラエル国家の建設は、それがアブラハム契約に約束されていたことの成就であると主張する方々は、それらの預言が、新しい契約の下にある時代にあっても、文字通り、カナンの地における地上の国家としてのイスラエルの回復のことを預言していると理解しておられます。
 私は、聖書神学と契約神学にそって、古い契約の下での預言とその新しい契約の下での成就の関係を次のように理解しています。
 古い契約の下での預言は、言うまでもなく、ことばによる預言ですが、古い契約の下で(そのためにすでにお話ししたヘブル人への手紙に示されている限界がありますが)、歴史の事実として実現します。そして、その預言のことばと、その古い契約の下での成就としての歴史の事実とが相まって、やがて来たるべき新しい契約の下での最終的な成就を指し示しているということです。
 たとえば、先ほど取り上げた創世記15章に記されている高齢である上に子が生まれていなかったアブラハムに、空の星のように多い子孫が生まれるという預言としての約束のことばは、不妊の女性であった(創世記11章30節)サラから、約束の子イサクが生まれたという歴史的な事実において、古い契約の下での成就を見ます。そして、その預言のことばと、その古い契約の下での成就という歴史的な出来事が相まって、やがて来たるべき新しい契約の下での成就を指し示しています。それが、ガラテヤ人への手紙3章9節に、

 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

と記されているように、ユダヤ人と異邦人とからなる、「信仰によって生きる」アブラハムの子において最終的な成就を見るようになりました。
 また、ダビデ契約においては、サムエル記第二・7章12節ー13節に、はダビデに

あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

という預言と約束(のことば)を与えられました。
 このことは、古い契約の下では、ダビデの子ソロモンにおいて成就しました。ソロモンの王国はイスラエルの王国の歴史の中で最も栄えましたし、ソロモンがの神殿を建設しました。さらには、ダビデ王朝は、メソポタミアのアッシリアやバビロンという帝国と、南のエジプトという帝国の支配の狭間にありながら、425年ほど存続しました。これは古代オリエントでは稀に見る長さです―― たとえばエジプトは、帝国としては南王国ユダよりはるかに長い歴史がありますが、それを支配する王朝は反乱などで、ダビデ王朝より短い期間で繰り返し交代しています。ただし、これには古い契約の下での成就としての限界があり、ダビデ王朝も永遠の王朝ではありませんでした。
 そして、この預言と約束のことばと、古い契約の下での成就としての地上的、歴史的な事実とが相まって、やがて来たるべき新しい契約の下での究極的な成就を指し示しています。そのダビデ契約に約束されていたダビデの子は、神の御子イエス・キリストであり、その永遠の王座は、地上にあるのではなく、栄光のキリストが着座された父なる神の右の座です(使徒の働き2章29節ー35節)。また、ダビデの子が建てる神殿は、栄光のキリストの復活のからだであり、ユダヤ人と異邦人からなる、キリストのからだである教会で、そこに栄光のキリストがご臨在しておられます。
 それと同じように、先ほど挙げた旧約聖書のいくつもの預言は、その預言のことばと、その古い契約の下での歴史的な成就が相まって、やがて来たるべき新しい契約の下での成就を指し示しています。約束の相続地について言えば、がアブラハム契約において約束してくださったことばが、イスラエルの民がカナンの地に入って定着するようになった歴史の事実において古い契約の下での成就を見ます。そして、その約束のことばと、その古い契約の下での成就としての歴史の事実が相まって、やがて来たるべき新しい契約の下での成就を指し示していました。そのことが、すでにお話ししてきたヘブル人への手紙11章8節ー16節に記されていることです。
 ヘンドリクセンが記していることに戻りますが、ヘンドリクセンはさらに、それらの預言には、イスラエルが悔い改め、罪から離れ、神であるに立ち返るなら、そのようにしてくださる、という条件がついているということも指摘しています。その上で、

しかし、一九四八年五月一四日に、イスラエルの国家を建設したユダヤ人は、悔い改めていませんでした。彼らの宗教は、概してヒューマニズムの宗教です。それは自己を信頼するもの、「労働の宗教」です。

と述べています。
 ヘンドリクセンは記していませんが、新しい契約の下にある時代においては、悔い改めてに立ち返るということは、神であるが遣わしてくださったメシア、すなわち、の民のために、十字架にかかって死んで罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じることによっています。
 しかし、そのイスラエル国家の建設は、神であるが遣わしてくださったメシアであるイエス・キリストへの信仰に基づいてなされたことではありませんでした。
 もしイエス・キリストへの信仰に基づいていたのであれば、武力をもって、もともとそこに住んでいたパレスチナ人を追い払うようなことはしなかったことでしょう。マタイの福音書26章52節には、ご自身を逮捕しようとしてやってきた大祭司のしもべに剣を抜いて切りかかった弟子(ペテロ)に

剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。

と言われたイエス・キリストの教えが記されています。また、ヨハネの福音書18章36節には、イエス・キリストがこの世の権威を代表するローマの総督ピラトに、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

とあかしされたみことばが記されています。

          *
 神のみことばの光の下では、今は、神が大洪水によるさばきを執行された後の時代の歴史を保持してくださるために示しておられるみこころ、すなわち、創世記9章5節ー6節に、

わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって血を流される。
 神は人を神のかたちとして
 造ったからである。

と記されている、神のかたちとして造られている人のいのちの尊厳性を守るようにというみこころにそって、イスラエルも含めて、国々の為政者たちが神によって託されている使命を果たすことが求められていると考えられます。

 このことにかかわる補足として、まず、

 人の血を流す者は、
 人によって血を流される。

と言われているときの「人によって」ということについて注釈しておきます。
 4章13節ー15節に記されていますが、弟アベルを殺害したカインが、他の兄弟たちからの復讐を恐れてと考えられますが、に、

 私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。

と訴えた時に、は、

わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。

と宣言してくださいました。こののみことばから推察できるように、私的な復讐をすることはのみこころではありません。それで、

 人の血を流す者は、
 人によって血を流される。

と言われていること、すなわち、神のかたちとして造られている人のいのちの尊厳性を守ることは、社会的な権威者に委ねられていることであると考えられます。ローマ人への手紙13章1節ー5節に記されている「上に立つ権威」についての教えには、このことの背景があると考えられます。
 また、もう一つの注釈ですが、この9章5節ー6節に記されていることには、歴史的な背景があります。
 それは、4章23節ー26節に記されている、アダムからカインを経て7代目に記されている、レメクの暴力による支配です。
 この、アダムからカインを経てレメクに至る歴史は、5章に記されている、アダムからセツを経て10代目に記されているノアに至る歴史と並行していて、6章5節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

と記されており、11節に、

 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。

と記されている、大洪水によるさばきが執行される前の時代状況を生み出した原因を示していると考えられます。
 注目すべきは、レメクの子たち、特に、「青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった」トバルカインの才能です。彼が農耕機具を造り出せば多大な収穫がもたらされたでしょうし、武器を造り出せば強大な国家の建設をもたらしたでしょう。このことは、5章に記されているように、大洪水によるさばきが執行される前の人の寿命が途方もなく長かったことを踏まえると、トバルカインによってもたらされたものの大きさを理解することができます。

 私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。
 一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
 カインに七倍の復讐があるなら、
 レメクには七十七倍。

というレメクのことばはそのことを示唆しています。

 カインに七倍の復讐があるなら、
 レメクには七十七倍。

ということばは、自分たちの父祖カインは神に頼ったけれども、自分には神はいらない、というより、神の復讐など生ぬるい、自分には神以上のことができるというようなことを伝えています。
 その結果、6章5節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

と記されているように、人の罪による腐敗が徹底化していき、極まってしまいました。さらに、その結果11節に、

 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。

と記されている状態になってしまいました―― 人が神であるに罪を犯して堕落していなかったとしたら、1章28節に記されている神の祝福の下に、人が地に増え広がるに従って、地は愛で満ちていったはずです。
 大洪水によるさばきが執行される前の時代においては、人の罪による腐敗が極まってしまい、神のかたちとして造られている人のいのちの尊厳性がまったく踏みにじられていました。
 神であるは人類の歴史の中で一度だけ、人の罪はそのままでは(神であるが止めてくださらなければ)どんどん腐敗を深めていき、ついには極まってしまうことを、歴史の事実をとおしてお示しになりました。さらに、そのような事態になってもがそれを放置されれば、ご自身の聖さが問われるほどの事態となり、はそれまでの時代のすべてを清算する終末的なさばきを執行されるということを、やはり、歴史の事実をとおしてお示しになったのです。
 そして、このことが背景となってペテロの手紙第二・3章3節ー7節の教えが記されています。このノアの時代に起こったことは、先ほど触れたように、終わりの日に執行される最終的なさばきを指し示す歴史的な出来事となっています。